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菊地成孔『PELISSE』「速報」2008. 6. 17 更新分

ワタシは彼(引用者註:秋葉原無差別殺傷事件の犯人)を「人類としてのニュータイプ」と言ったのではありません。「速報」にあるとおり、彼はオーディナリーであり、彼に移入し、よくやった。自分もやる。といた声が相次いだ事からも、まったくニュータイプではなく、あるセクトの一般的な姿であると思います。 

また、彼が犯した犯罪すら、ワタシはほとんど新しいとは思いません。ワタシがニュータイプと言ったのは、「ああいう犯罪の犯人」として、自殺/死刑、つまりあらゆる意味で死を前提としていない。という点、発展的に「アキバでやれば解ってくれるのではないか(許してくれるのではないか)」と、犯罪現場そのものに母性の投影があったのではないか?というの2点を併せ、「犯罪史的にニュータイプ」だと言う事です。 

アメリカの高校の食堂でライフル乱射する子達は、もう死にたい。死ぬんだと思ってやっています。ある事件では、犯人をアマレス部の猛者が取り押さえ、犯人は、そのアマレス部員に「お願いだ殺してくれ。殺してくれ」と嘆願しましたし、「死にたいけれども自分で死ねないから通り魔連続殺人を行って死刑にして貰いたい」という発展形もありましたし、最近の例だと、これは通り魔ではなくストーカー系ですが、長崎の猟銃乱射男は自宅付近の教会で自殺しました。 

「やっても死刑にならないかも」「アキバをメチャクチャにしてやるつもりはなく、好きな場所で受け入れてもらいたい」とでも言った「物凄いシュガーさ」は、ですから三段論法的に言えば、(1)彼は特別変わった奴ではない(2)彼は通り魔事件の犯人としてはニュータイプである(3)なので、現代と言うのは、通り魔事件のニュータイプである潜在的な犯人がたくさん居る時代だ。と繋げる事が出来ます。 

更に言えば、外国人が聞いたら驚く(エキゾチックに思う)だろう点に、彼がノードラッグであった点です。というよりも、この事件は「いい加減、たとえ話じゃなくて、本当に携帯/ネット/アニメ/ゲームがハードドラッグだという事を認識/規定しようよ」というきっかけになる事件かも知れません(ならないと思いますが)。 

70年代のニューヨーク市では、市内の死亡理由のナンバー1が「レイプと殺人」だった時代があります。あなたの年齢ではイメージすら湧かないでしょうからず「タクシードライバー」という映画を見てみて下さい。人類史は「社会的な格差により、個人的な問題やリビドーを抑えきれなくなり、世界等滅んでしまえノーフューチャーとばかりに凶行に及ぶ人々がたくさん、ある地域に密集している」という現象を途絶えさせた試しはありませんが、70年代のニューヨーク市は、ジャメイカだのハンブルクだのデトロイトだのワシントンDCに比べれば、現在の我々にも少しは馴染みやすいかもしれません。何れにせよ、我が国のそれも含め、7~80年代までの「個人による無差別殺人」は、政治テロのような計画的なものを除けば(ここでは政治がドラッグですが)、例外無く自殺&死刑覚悟で、そしてほとんどがドラッグのサポートを得ていました。 

ドラッグを極めて大雑把に定義するならば「現実感を無くし、万能感を得られるので日常の憂さが晴れるし、脳の働きが非日常的になるので何かが解った(悟った)気などもするのだが、実際は何も無い。また、中毒や依存した場合の代償として被害妄想と無能感とあらゆる痛みに苛まれ、廃人に至る」ものであって、携帯/ネット/アニメ/ゲームは現代を代表するドラッグです。安価で高性能なのが手に入りますし、何せ国家にドラッグだと思われていません。ほとんどのハードドラッグが、発明され、流通され始めた当初はドラッグだとは思われていなかった。というのはドラッグカルチャー史の基礎ですが、そんな事まではあなたが知らなくても良いでしょう。そして「愛」や「金」や「宗教」もドラッグですが、余りにエッセンシャル過ぎ、携帯/ネット/アニメ/ゲームといった新興ドラッグの様なキレキレの勢いはありません。 

「繋げなくなったら死よりも恐ろしい」というあなたの発言は、ハードコアなジャンキーの発言そのものです。金が無くとも、無宗教でも愛が無くとも、空虚だったり多少困ったリはするでしょうが「死ぬ程恐ろしく」というほどでは無いでしょう。我が国はマリファナひとつ解禁出来ず、パソコンとネットは大盤振る舞いである社会ですが、一方でこれも実に日本っぽい話なのですが、「やばいとなったら手のひらを返した様に徹底的に取り締まる」というのも我が国の姿ですから、携帯(以下略)がドラッグだという事の確認/立証/看做があったら規制されると思うのですが、認識されない限り規制はありません(在刑法定主義が云々、といった司法の議論は何の役にも立ちません。それがドラッグだと認識されるかどうかだけが総てです)。何れにせよ「ネットをマリファナ並みに規制する」という事になったら、日本でおそらく初の、100%本気でガチガチなデモを見る事が出来るでしょうし、場合によっては暗殺なども見れるでしょう。 

ワタシはドラッグ渦巻くジャズの世界の住人であり、書き原稿の持ち込みではなく、ホームページへの書き込みが目に留まって文筆家デビューした物書きですから、ワタシのこういった話は信用してほしいのですが、あらゆるドラッグは、適度にやれば長生き出来、やりすぎて依存や中毒を起こせば確実に破滅(無関係な他人も巻き込む、破滅以下の破滅も簡単に起ります)します。ワタシは職業柄、というか、自我の都合により、現在はあらゆるドラッグのうち、いくつかはまったくやらず、いくつかは適度にやり、いくつかはかなりハードにやりますが、そういうコントロールは痛い目に合ったり、加齢によって衰えたり賢くなったりする事で出来るもので、若い頃は何でもかんでも臨死寸前までムチャクチャにやっていました。可憐極まりない話です。 

なので「適度にやるのが良いっすよドラッグは。やりすぎると死にますよ。死よりヒドイ死ですよ」以外言う事はありませんし、こんな、何も言っていないに等しいコメントは出す価値もありません。ただ、現代人は、極めて大雑把に「労働」という1セット制から「労働/趣味」という2セット性を経て、現在「労働/趣味/ネット世界に接続」という3セット性に生活時間の区分を進化させていますが、そのうちのひとつがドラッグなのだという事について、一般的な認識が無さ過ぎると思います(たとえ話で「ネット中毒」とか「アニメはドラッグ」とか言っても、それは認識からむしろ遠くなります。普通にトルエンやコケインやアンフェタミンの様にドラッグなのだ。と知るべきです。アキバの彼は21世紀の川俣軍司なのだ。と言っても、お解りにならないと思いますが)。 

恋の悩みに関しては専門外ですので、いささか無責任な事を言いますが、告白すべきだと思います。告白して上手く行っても、断られても、同じ事です。告白するかどうかは、結果の如何ではなく、告白するかしないかのみが問題であって、告白しない理由というのは「振られたら傷つくから」以外に想像がつきません。傷つくのがイヤという理由だけで告白が出来ないのであれば、それは生きていないのとほぼ同じです。傷ついて初めて時間と空間は生じます。傷つくのを回避する人からは時空間が消え、自殺以外やる事が無くなる訳です。勝ち負けが世界を支配していると言うのは間違いではありません。問題は、勝利がどこにあるか、敗北がどこにあるか深く知る事です。

 

 (菊地成孔『PELISSE』「速報」2008. 6. 17 更新分)

 

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菊地成孔『PELISSE』「速報」2008. 6. 13 更新分

 

さて一昨年になりますが、NHKの「ポップジャム」に出演した際、渋谷の街を歩かされまして「これから渋谷はどうなると思いますか?」等と質問されるコーナーがあったのですが、その際「既に渋谷にはアキバが混入しており、その拡大は誰も防げないだろう。日本の都市は、油断するとどこでも亜種アキバ化する可能性を持っている」といった旨発言しました所、番組オンエア後タッチの差で勃興した「アキシブ系」を捉えた先駆的発言。などと蒙昧な過大評価をされまして「アキシブ系コンピ」とやらに参加してくれ(小西さんも参加してるし!といったアナウンス付きで)。というオファーを頂戴したので丁重にお断り申し上げたのですが、これでは「全世界同時渋谷化」どころか「全世界同時アキバ化」であります。 

 TVは時折出るだけで、ほとんど観ないワタシですが、たまに夜中にNHK等を観ていると、詳しいジャーゴンテクニカルタームは全くわからねども、どう考えても、不必要なまでに萌え記号が入っている番組ばかりで「スタッフ全員がヲタクなのではないだろうか?」と思いますので、なるほどこれではアキシブ系さもありなん&やむなし。何せNHKがアキバに心を奪われているのだから。と、まあ、これは如何なる誰に対する誹謗でもありませんが、この時のワタシのキブンが何に一番似ているかと言えば透明な悲しさです。過去、西武文化というものの跳梁によって日本中が原宿駅前みたいになった。と嘆かれた時がありましたが、その時の悲しさは(自分が若かった。ということもあり)中途半端に不透明な生々しさがありました。 

 ワタシが失われ行く60年代社交文化の砦の中でああしたジャズを演奏していた頃、厳密にはマチネの為に久しぶりで午前中に起き、フラフラしながらサウンドチェックをしている最中に、あの事件は起りました。若者が絶望し、この世など無くなってしまえと思う事は健康の証しですし、マンガばかり観る事で美醜の感覚が極端化し、自分を醜いと自己規定してしまう愚かさも伝統的な物です。銃器が入手出来ないかわりに刀剣類が容易く入手出来るという状況はかなり長い歴史を持っており、顔相的には宅八郎氏ですから、何も目新しくは無い。携帯サイトの有害な面も多分に含んでいますが、闇サイトで知り合い、金欲しさに人殺しをする。といった極端な有害性よりは低く見積もっても問題ないでしょう。 

 この事件に何らかの現代性があるとしたら、第一には「たくさん殺しても(すくなくともすぐには、あるいは「上手く行けば永遠に」)死刑にはなんねえんじゃね?」といった見込みが犯人から抜けなかったのではないかということです。 

 彼の年齢だと、大量殺人の犯人に死刑が執行された例を見聞きする経験は無く、名だたる極悪半全員が何年もムショの中にいるままですし、やれ精神鑑定、やれ死刑廃止論者と、細かい事は解らぬが、自分に有利そうな(甘い読みの出来る)ファクターばかりが目につくでしょう。彼の時間感覚で言えば7~8年の猶予もあれば、それは「やっても死刑に成らなかった」という事とイコールで、おつりがくるほどではないでしょうか(告訴を一杯抱えているが、家に捕まえに来ない限り、裁判には出ない。というひろゆき氏のライフスタイルや、そもそも匿名で好きな事を書いて、責任は取らなくて良い。というメディアの属性も基本的な影響力を持っていますが、こうした事は既に多くの人々に批評的に見つめられているので、直接的な影響力ではないと思います)。 

 つまり犯人は「こんなことをしたら死刑になる。ならずとも死に値する領域に完全に入ったのだ」といった、自殺や死刑覚悟の自己表現ではなく「やっても許される(かも)」という、砂糖のように甘い読みに基づいたニュータイプだったのではないかと思います。 

 アキバのホコテンというのはワタシは一度も行った事も無く、知人からたまに聞く噂(エアガンや露出行為の歯止めが利かなくなっている、一種のパラダイスだという、おそらくやや誇張されたもの)からだけの類推に成りますが、犯人にとってアキバのホコテンは、呪いの詰まった、汚すべき場所という側面(タクマに於ける小学校の校庭や、アメリカで頻発するライフル乱射事件に於ける高校の大食堂のような)もあったかも知れませんが、同時に「アキバのホコテンなら、解ってくれる(乃至、喜んでくれる/面白がってくれる/怖がってくれるetc)という、「許してくれる場」であったことが想像出来、これがこの事件の第二のネクストレヴェル性であって、つまり事はアキバだけではなく、現代性の推進は幼児性の進行に他ならないという、面白くも何ともない、在り来たりな結論です。 

 あらゆる現代的な事件において、被害者はたまったものではありませんが、今回被害にあった芸大生は、ワタシの芸大の授業をサポートしてくれていた学生の先輩です。ワタシは「ほ~らヲタクは危ない、気持ち悪い、規制だあんなもん」などという気は毛頭ありません。そして、前述の「ポップジャム」より更に数年前、歌舞伎町に越して来てすぐに「カーサブルータス」(おそらく。記憶曖昧)に「歌舞伎町の良い所は、マスコミに結界が張られ、中が見えない所だ。秘密がある事によって守られる危険性は健全である。秋葉原は日本の文化の代表だとばかりに、軽躁状態で見せまくっている。こんな危なっかしい事はない。歌舞伎町も浄化と浄化と騒がれているが、併せてこんなに危なっかしい事は無い。秘密と危険がなくては、人類は夜を越す事が出来なくなり、滅ぶ」といった旨発言しましたが、鬼のクビでも取ったかのように「ほらみろいわんこっちゃない」等とふんぞりかえるのは、バカのやることです。 

 それよりもワタシは、取り急ぎ「アキバ系のヲタク」という、余りにも杜撰なくくりかたでもって、何らかのライフスタイルを持った人々の集団を擬人化し、ワタシ個人との関係を規定するならば、路上でインタビューを受けた彼等が「こんな、こんな姿で殺される為に生まれて来たんじゃないのにね(涙)」だの「ばかやろー!(涙)」だの「こんな事件が二度と起らない様にしてほしいです」だの「ホコテンは止めてほしく無いですね。頑張って売り出そうとしている子とかもいっぱいいるんだし」だの言っている限り、同じ現代の東京を生きる者として、残念ながら全く尊敬出来ないですね(ワタシに軽蔑されようと、痛くも痒くもないでしょうけれども)しかし彼等がこう発言したら、ワタシは彼等を(個人的な好き嫌いとは別に。そして、発言の正当性とは別に。ですが)大いに尊敬するでしょう。 

 「古来、先鋭的なカルチャー、それが定着した場所に危険が付き物である事は当たり前の事だ。70年代のパンクを見よ、90年代のヒップホップを見よ、ロンドン、ニューヨーク、ワシントンDC、デトロイトハンブルグ、モスクワ。どこにも命を落としかねない地区と文化はあった。今やアキバはそういった歴史に名を連ねたのだ。日本人は攻撃的な他殺意を持ちずらい国民性があり、そういった場所が日本で生まれる事は過去無かったが、自閉的な自殺意と結びつくや、こうした爆発的な暴力性が生じる事が定着し、その聖地がここアキバなのだ。ロックもヒップホップもなし得なかった事を、我々はドラッグさえ抜きでなし得たのである。アキバは無限に楽しく危険が無い子供達の遊園地であると同時に、後ろから刺されるかも知れない場所でもある。古来、遊園地のピエロがスラッシャーであった。という映画が何本あるか数えてみるが良い。遊園地はコドモの屠殺場なのだ。我々は商店街が何と言おうとホコテンを止めないし、そこに危険性がある事を誇りと諦めを込めて受け入れる。発展的に考えれば、パンクが観光パンク化したように、やがてアキバカルチャーも危険ではなくなるかも知れない。しかし、今はあらゆる意味で全盛期なのだ。これからアニソンは世界中のヒットチャートに影響を与えるだろう。しかしアキバにまだDr.ドレーは居ない。文句がある奴は来るな。今や家電品が特に安い訳ではない」 

 東京は動いています。数時間後ワタシは45になり、更に数時間が経てば、新宿は渋谷からやってきた人々を大量に抱え込み、ギンジュク地区のインデペンデンスは揺れるでしょう。年頭に申し上げた事を年の真ん中で繰り返させて頂きます。乱世であります。サヴァイヴァル必要なのはナイフではない。それではごきげんよう。

菊地成孔『PELISSE』「速報」2008. 6. 13 更新分)

 

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