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菊地成孔『PELISSE』「速報」2008. 6. 13 更新分

 

さて一昨年になりますが、NHKの「ポップジャム」に出演した際、渋谷の街を歩かされまして「これから渋谷はどうなると思いますか?」等と質問されるコーナーがあったのですが、その際「既に渋谷にはアキバが混入しており、その拡大は誰も防げないだろう。日本の都市は、油断するとどこでも亜種アキバ化する可能性を持っている」といった旨発言しました所、番組オンエア後タッチの差で勃興した「アキシブ系」を捉えた先駆的発言。などと蒙昧な過大評価をされまして「アキシブ系コンピ」とやらに参加してくれ(小西さんも参加してるし!といったアナウンス付きで)。というオファーを頂戴したので丁重にお断り申し上げたのですが、これでは「全世界同時渋谷化」どころか「全世界同時アキバ化」であります。 

 TVは時折出るだけで、ほとんど観ないワタシですが、たまに夜中にNHK等を観ていると、詳しいジャーゴンテクニカルタームは全くわからねども、どう考えても、不必要なまでに萌え記号が入っている番組ばかりで「スタッフ全員がヲタクなのではないだろうか?」と思いますので、なるほどこれではアキシブ系さもありなん&やむなし。何せNHKがアキバに心を奪われているのだから。と、まあ、これは如何なる誰に対する誹謗でもありませんが、この時のワタシのキブンが何に一番似ているかと言えば透明な悲しさです。過去、西武文化というものの跳梁によって日本中が原宿駅前みたいになった。と嘆かれた時がありましたが、その時の悲しさは(自分が若かった。ということもあり)中途半端に不透明な生々しさがありました。 

 ワタシが失われ行く60年代社交文化の砦の中でああしたジャズを演奏していた頃、厳密にはマチネの為に久しぶりで午前中に起き、フラフラしながらサウンドチェックをしている最中に、あの事件は起りました。若者が絶望し、この世など無くなってしまえと思う事は健康の証しですし、マンガばかり観る事で美醜の感覚が極端化し、自分を醜いと自己規定してしまう愚かさも伝統的な物です。銃器が入手出来ないかわりに刀剣類が容易く入手出来るという状況はかなり長い歴史を持っており、顔相的には宅八郎氏ですから、何も目新しくは無い。携帯サイトの有害な面も多分に含んでいますが、闇サイトで知り合い、金欲しさに人殺しをする。といった極端な有害性よりは低く見積もっても問題ないでしょう。 

 この事件に何らかの現代性があるとしたら、第一には「たくさん殺しても(すくなくともすぐには、あるいは「上手く行けば永遠に」)死刑にはなんねえんじゃね?」といった見込みが犯人から抜けなかったのではないかということです。 

 彼の年齢だと、大量殺人の犯人に死刑が執行された例を見聞きする経験は無く、名だたる極悪半全員が何年もムショの中にいるままですし、やれ精神鑑定、やれ死刑廃止論者と、細かい事は解らぬが、自分に有利そうな(甘い読みの出来る)ファクターばかりが目につくでしょう。彼の時間感覚で言えば7~8年の猶予もあれば、それは「やっても死刑に成らなかった」という事とイコールで、おつりがくるほどではないでしょうか(告訴を一杯抱えているが、家に捕まえに来ない限り、裁判には出ない。というひろゆき氏のライフスタイルや、そもそも匿名で好きな事を書いて、責任は取らなくて良い。というメディアの属性も基本的な影響力を持っていますが、こうした事は既に多くの人々に批評的に見つめられているので、直接的な影響力ではないと思います)。 

 つまり犯人は「こんなことをしたら死刑になる。ならずとも死に値する領域に完全に入ったのだ」といった、自殺や死刑覚悟の自己表現ではなく「やっても許される(かも)」という、砂糖のように甘い読みに基づいたニュータイプだったのではないかと思います。 

 アキバのホコテンというのはワタシは一度も行った事も無く、知人からたまに聞く噂(エアガンや露出行為の歯止めが利かなくなっている、一種のパラダイスだという、おそらくやや誇張されたもの)からだけの類推に成りますが、犯人にとってアキバのホコテンは、呪いの詰まった、汚すべき場所という側面(タクマに於ける小学校の校庭や、アメリカで頻発するライフル乱射事件に於ける高校の大食堂のような)もあったかも知れませんが、同時に「アキバのホコテンなら、解ってくれる(乃至、喜んでくれる/面白がってくれる/怖がってくれるetc)という、「許してくれる場」であったことが想像出来、これがこの事件の第二のネクストレヴェル性であって、つまり事はアキバだけではなく、現代性の推進は幼児性の進行に他ならないという、面白くも何ともない、在り来たりな結論です。 

 あらゆる現代的な事件において、被害者はたまったものではありませんが、今回被害にあった芸大生は、ワタシの芸大の授業をサポートしてくれていた学生の先輩です。ワタシは「ほ~らヲタクは危ない、気持ち悪い、規制だあんなもん」などという気は毛頭ありません。そして、前述の「ポップジャム」より更に数年前、歌舞伎町に越して来てすぐに「カーサブルータス」(おそらく。記憶曖昧)に「歌舞伎町の良い所は、マスコミに結界が張られ、中が見えない所だ。秘密がある事によって守られる危険性は健全である。秋葉原は日本の文化の代表だとばかりに、軽躁状態で見せまくっている。こんな危なっかしい事はない。歌舞伎町も浄化と浄化と騒がれているが、併せてこんなに危なっかしい事は無い。秘密と危険がなくては、人類は夜を越す事が出来なくなり、滅ぶ」といった旨発言しましたが、鬼のクビでも取ったかのように「ほらみろいわんこっちゃない」等とふんぞりかえるのは、バカのやることです。 

 それよりもワタシは、取り急ぎ「アキバ系のヲタク」という、余りにも杜撰なくくりかたでもって、何らかのライフスタイルを持った人々の集団を擬人化し、ワタシ個人との関係を規定するならば、路上でインタビューを受けた彼等が「こんな、こんな姿で殺される為に生まれて来たんじゃないのにね(涙)」だの「ばかやろー!(涙)」だの「こんな事件が二度と起らない様にしてほしいです」だの「ホコテンは止めてほしく無いですね。頑張って売り出そうとしている子とかもいっぱいいるんだし」だの言っている限り、同じ現代の東京を生きる者として、残念ながら全く尊敬出来ないですね(ワタシに軽蔑されようと、痛くも痒くもないでしょうけれども)しかし彼等がこう発言したら、ワタシは彼等を(個人的な好き嫌いとは別に。そして、発言の正当性とは別に。ですが)大いに尊敬するでしょう。 

 「古来、先鋭的なカルチャー、それが定着した場所に危険が付き物である事は当たり前の事だ。70年代のパンクを見よ、90年代のヒップホップを見よ、ロンドン、ニューヨーク、ワシントンDC、デトロイトハンブルグ、モスクワ。どこにも命を落としかねない地区と文化はあった。今やアキバはそういった歴史に名を連ねたのだ。日本人は攻撃的な他殺意を持ちずらい国民性があり、そういった場所が日本で生まれる事は過去無かったが、自閉的な自殺意と結びつくや、こうした爆発的な暴力性が生じる事が定着し、その聖地がここアキバなのだ。ロックもヒップホップもなし得なかった事を、我々はドラッグさえ抜きでなし得たのである。アキバは無限に楽しく危険が無い子供達の遊園地であると同時に、後ろから刺されるかも知れない場所でもある。古来、遊園地のピエロがスラッシャーであった。という映画が何本あるか数えてみるが良い。遊園地はコドモの屠殺場なのだ。我々は商店街が何と言おうとホコテンを止めないし、そこに危険性がある事を誇りと諦めを込めて受け入れる。発展的に考えれば、パンクが観光パンク化したように、やがてアキバカルチャーも危険ではなくなるかも知れない。しかし、今はあらゆる意味で全盛期なのだ。これからアニソンは世界中のヒットチャートに影響を与えるだろう。しかしアキバにまだDr.ドレーは居ない。文句がある奴は来るな。今や家電品が特に安い訳ではない」 

 東京は動いています。数時間後ワタシは45になり、更に数時間が経てば、新宿は渋谷からやってきた人々を大量に抱え込み、ギンジュク地区のインデペンデンスは揺れるでしょう。年頭に申し上げた事を年の真ん中で繰り返させて頂きます。乱世であります。サヴァイヴァル必要なのはナイフではない。それではごきげんよう。

菊地成孔『PELISSE』「速報」2008. 6. 13 更新分)

 

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